「瀉瓶の心、西安」(中国の旅 下)

「尊敬する書家はいらっしゃいますか」と聞かれ、即座に『空海』と答える。

彼は偉大な宗教家であると同時に偉大な書家でもある。私が幼い頃、母は「お前が立派な書家になるためには弘法大師空海にお願いしないといけない。」と言って、手を合わせてくれていた。空海は命懸けで佛教の真髄を知るために西安(長安)に旅した。密教の教えを恵果阿闍梨に学ぶために。そして恵果阿闍梨は自分の弟子に教えなかった密教の学問を空海一人に伝授した。なぜだと詰め寄る怒りの弟子達に「空海は瀉瓶の心だから。」と答えたと言う。

中国の旅は何度来ても感動。特に今回は菜の花畑と西安である。西安は昔長安と呼ばれ、シルクロードの中でも一番中心の都市である。1.秦始皇帝陵 2.兵馬俑坑博物館 3.碑林博物館 4.大雁塔 5.青龍寺……。歴史の場に立つと、タイムスリップして、その時の歴史上の人物と出会った様な気がする。
空海は京都から旅立ち、都の長安を目指す。瀬戸内海から福岡、鹿児島、潮に流され中国の南、福州で。そこから陸路で長安へ。(成田から西安の空路で一っ飛びの白光の旅を空海が知ったら……。」

空海が学んだ青龍寺は唐代末に戦乱で廃寺となったのだが、遺跡が発掘されたのを機に再建し、空海記念碑や恵果空海記念堂、庭園が造られた。他の中国のお寺に見られるような、赤や黄の派手さはなく、どこか日本の侘寂(わびさび)さえ感じられる。そのせいか、観光客にはあまり人気がないらしく、静かな庭園で写真撮影をしている花婿花嫁がいる。「ここはきれいだから、よく結婚式の前の写真撮影に使うんですよ。」拝観料を取る係りの女性も暇そうである。

私にとっては好都合であった。ゆっくり境内を歩き、塔に登った。空海の想いを感じる。長安の都は、またインドにお経を求めた玄奘三蔵の縁の地でもある。大雁塔には三蔵法師がインドから持ち帰った経600部が納められた。二人とも命をかけて、いつ終わるかもわからない旅にでた。使命を果たすことに人生を費やした。何が彼らを突き動かしたのだろう。

空海がここから始めたように、私もまた今回の旅の中で新しい作品を掴んだ。ここからはじめる、第一歩である。『瀉瓶の心』とは瓶の中の水を捨てて、いつもからっぽにしておけ。すると新しい物がどんどん入ってくるという事である。憧れの師、空海に見守られながら、塔の上で二点制作した。
平成18年7月21日 清龍寺にて